近況

前回の書き込みから、ずいぶん日にちが過ぎてしまいました。

蓼科、大阪とロケが続き、その間にも対談、講演、大学の授業と休みなしで動いていました。
何よりも、少しでも余裕があれば、9/5日から始まる個展のための撮影に時間を使いたかったのですが、それもままならず、どうなりますか。

ちょっと他人事みたいに聞こえたかもしれませんが、とんでもないです。寝ても覚めても、写真のことばかり考えています。
以前、「フレーム」というタイトルで、次の展覧会にふさわしい写真フレームについてささやかな感想を書きました。
現在も、今撮っている写真にふさわしいフレームをずっと探し続けているのです。

京都の「三角屋」さんから、江戸時代の栗の柱材で作ったフレームが送られてきて、暇を見つけてはそれを必死で磨いた結果、僕のイメージどおりの質感が出来たのですが、写真を嵌めてみたら、・・・なんだか違うのです。
どう言ったらいいのかわかりませんが、あまりに材が主張して、フレームが物質的になってしまい、肝心の写真が一枚の紙になってしまうのです。写真は印画紙なんだから、紙で当たり前と思われるでしょうが、そうではなくて、僕としては、作品を目の当たりにしたら、当然ながら写真の中身、表現してる世界に気持ちが飛び込みたいわけです。
フレームひとつ取り上げても、問題山積です。

以前も書きましたが、僕のデビュー作品は、首から上をフレームアウトした「首なし写真」だったので、いつか、あのときに見失った首から上、つまり「顔」を撮ってみたいと思い続けてきました。それからいつの間にか38年という時間が過ぎてしまいましたが、最近になって、猛烈に「顔」を撮りたくなったのです。今までも「顔」にこだわっていましたが、「首なし写真」にふさわしい「顔」を発見できないでいました。ところが、ついに見つけました。あの時見失った「顔」を38年ぶりに見つけ出しました。見つけたその「顔」は表情がないのです。だからといってもちろん死んでるわけではありません。表情がないくせに一言で言えない複雑な「顔」をしているのです。

写真というのは、一瞬をとらえる芸術として成立してきた歴史があります。
人の顔を例に挙げると、一瞬の表情をつかまえる醍醐味に、写真家は拘束されてきたように思います。最近、僕は一瞬という時間から自由になってもいいのでは、と思っています。言ってみれば、「決定的瞬間」からの決別です。
一瞬は具体的ですが、切り取らない時間は抽象的に見えます。僕が今撮っている「顔」は、輪郭だけが残って、そのうち消えて無くなる予感がします。今のうちに残しておきたいのです。

「顔」や「写真」に興味がある方は、9/5日から開催する僕の写真展「FACES」に、ぜひ来ていただきたいです。

 

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