写真と珈琲のバラード(10)

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昨日、11/28日で「十文字美信写真展 刻々」が終了しました。来廊いただいた皆様に心から御礼申し上げます。

今回展示した写真は、球磨川の支流草津川(そうづがわ)の水面を撮影したのですが、私にはとても興味深い作品になりました。作品から何を観ていただきたいのかというと、すべての作品には何らかの生き物が写っていて、その生き物がとても可愛らしいのです。ただの水の「ゆらぎ」を写しただけですから、画面には生き物が写っているわけではありません。正確には「生き物に見える」、です。

あくまでも透き通った清流は、両岸の地形や水底の形、水中にある岩や石の影響でさまざまに流れが変化します。注意して見ると、視界に入る狭い範囲でも複雑な流れを見つけることが出来ます。角度や速度の違う「ゆらぎ」がなるべく複雑に集まる場所を探して、太陽の直射光が当たる時間を選び撮影したのが冒頭にアップした写真です。

この写真は何が写っているように見えますか?撮影しただけのオリジナルのままで、後処理はまったくありません。私には左向きの人の横顔が認められます。画面の下方には左手の甲が白っぽい色で描かれ、画面向かって左下には取っ手の付いた籠が見えています。思わず、「描かれ」と書いてしまいましたが、写真でありながら絵のように見えるのです。まるで油絵の具を一筆一筆カンバスに置いていくことで完成した絵画作品のようです。しかも、私にはセザンヌやゴッホの絵のタッチが想像出来る19世紀ヨーロッパ絵画界に起こった「印象派」の絵画を思い出しました。

もしそのように見えるとしたら、画面に写っている人物は、もちろん偶然が作り上げました。撮影した瞬間、私の眼にはこの人物像がまったく見えていません。人物像どころか、写真に写っている具体的な形象を見ることが出来ないのです。理由は、複雑に流れる「ゆらぎ」の動きを高速シャッターで一瞬切り取ったからです。二度と遭遇することが出来ないたった一度だけこの世に現れた人物なのです。

この写真が横向きの人物像に見えるとしたら、印象派の画家が描いた絵に見えるとしたら、とても面白いことが考えられます。透明な水のゆらぎにフォーカスを合わせ、水底の岩や砂はピントが来ていません。はっきり見えないことが人物を想像させる原因です。被写界深度を深くすると、岩や砂が明確に見えてしまい、具体的な清流を撮った風景写真になります。この作品ははっきり見える水の「ゆらぎ」とボケている水底の合体によって、鑑賞する人の想像力やイメージが作り上げた「籠を下げた人物」写真なのです。

さらに私が興味を惹かれるのは、この写真の細かな水の動きと透過し反射する光の見え方です。印象派の画家が描いた絵のようだ、と言いましたが、まさにそのとうりではないでしょうか?複雑に屈折する透明な水の厚みに、太陽の光が透過することで水底の物体を反射し眼に見える色彩が生まれました。19世紀ヨーロッパの感性の優れた画家の幾人かは、この写真のような現象を具体的に想像することが出来たのだと思います。見えない光をどうしたら平面のカンバスに、眼に見えるかたちにして表現するか、の一つの答えがこの写真にあるようです。


2 Responses to “写真と珈琲のバラード(10)”

  • 小谷良司 |

    光の本質を、体感させていただきました。ありがとうございます。

    • Bishin |

      私にも新しい発見がありました。丁寧に観ていただくことで自作の力になります。ありがとうございます。

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